乙字忌 (記念日 1月20日)
明治から大正にかけて、俳句の世界に「新傾向」という言葉を持ち込んだ俳論家がいた。大須賀乙字(おおすが おつじ)——1920年1月20日、40歳で世を去ったその人の忌日が、乙字忌である。
乙字は1881年(明治14年)、現在の福島県相馬市に生まれた。本名は績(いさお)。東京帝国大学文学部国文科に進み、学問の世界で頭角を現す一方、河東碧梧桐に師事して俳句の道にも深く踏み込んだ。東京音楽学校(現・東京芸術大学)の教授に就任したのは若いころのことで、学者肌の風格を持ちながら、俳句界の論客としてその名を轟かせていく。
転機となったのは1908年(明治41年)、東大在学中に発表した論考「俳句界の新傾向」である。この一篇が「新傾向俳句」という言葉を世に定着させ、日本の俳句史に刻み込まれた。正岡子規の死後、俳壇は碧梧桐と高浜虚子という二大潮流に分かれていた。虚子は五七五の定型と季語を守る伝統路線を説き、碧梧桐は定型に縛られない「無中心論」を唱えて自由な表現を模索した。乙字はその碧梧桐の側に立ち、写実をさらに象徴へと深める方向性を理論的に支えた。
しかし乙字の思索は一所にとどまらなかった。新傾向を推進した後、晩年には伝統を尊重する方向へと転じる。革新と伝統の間を揺れ動いたその軌跡は、ちょうど明治から大正へと移行した俳句界そのものの地殻変動を映すようでもある。活動期間は10年余りに過ぎないが、乙字の俳論は碧梧桐の新傾向から後の自由律俳句、さらに昭和の新興俳句運動にまで連なる伏線となった。
40歳という若さで急逝したため、乙字が自ら手がけた著作は多くない。しかし死後、遺稿や書簡を集めた『乙字句集』『乙字俳論集』『乙字書簡集』が順次刊行され、その思想の全体像が後世に伝えられた。短い生涯の中で蒔いた種が、時代をまたいで芽吹き続けたことになる。忌日にあたる「乙字忌」は「二十日忌」とも呼ばれ、1月20日という日付そのものが名前になっている。