青々忌 (記念日 1月9日)
「雨雲のよせつゝ凄き火串かな」——大阪から関西俳壇を牽引した松瀬青々(まつせ せいせい)が、1937年(昭和12年)のこの日に逝去しました。享年69歳。狭心症による死でした。
青々は1869年(明治2年)、大阪市に生まれました。本名は弥三郎。若い頃から俳句に親しみ、銀行員として働きながら句作を続けていました。転機となったのは1897年(明治30年)のことです。松山で発行されていた俳句雑誌「ほととぎす」第4号で高濱虚子の選に入選し、翌1898年(明治31年)に青々と改号。正岡子規にその才能を認められたことで、勤めていた銀行を退社し上京する決断をします。
上京後は「ホトトギス」の編集係として子規・虚子のもとで腕を磨きました。しかし2年ほどで大阪に戻り、1900年(明治33年)から大阪朝日新聞社の会計部に籍を置きつつ「朝日俳壇」を担当するという、実務と創作を兼ねる生き方を選びます。翌1901年(明治34年)には俳句雑誌「宝船(たからぶね)」を創刊・主宰し、後に「倦鳥(けんちょう)」と改題しました。この雑誌が関西俳壇における青々の拠点となっていきます。
青木月斗(げっと)とともに関西俳壇に重きをなした青々の作風は、虚子が唱えた「花鳥諷詠」や客観写生とは一線を画す主観俳句でした。東京のホトトギス系が客観的な写生を深化させていく時代に、大阪の地で主観性を重視した独自の流れを築いたことは、近代俳句史における関西の位置づけを考えるうえで見落とせません。明治・大正・昭和の三代にわたって俳壇に存在感を示し続けたことが、その影響力の大きさを物語っています。
著作として句集「妻木」、俳話集「倦鳥巻頭言集」が残されています。銀行員から新聞社員へ、そして関西俳壇の中心人物へと歩んだ生涯は、職業俳人とは異なる在野の精神を感じさせます。