らいてう忌 (記念日 5月24日)
「元始、女性は太陽であった」。この一文を1911年(明治44年)に世に送り出した平塚らいてうの命日が、5月24日です。明治から昭和にかけて、女性解放・平和運動の最前線に立ち続けた思想家・評論家であり、1971年(昭和46年)のこの日、85歳でその生涯を閉じました。
1886年(明治19年)2月10日、東京都千代田区五番町に生まれました。本名は明(はる)。日本女子大学校(現:日本女子大学)家政科を卒業後、禅の修行を通じて自我の確立に至ります。卒業後は生田長江主宰の閨秀文学会に参加しますが、1908年(明治41年)、そこで知り合った作家・森田草平と「塩原事件」と呼ばれる心中未遂事件を起こします。この出来事が、男尊女卑の社会で抑圧された女性の自我の解放へと彼女の関心を向かわせる転機となりました。
1911年(明治44年)、生田長江の強い勧めで、日本初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』を創刊。その冒頭に置かれた「元始、女性は太陽であった」という言葉は、近代日本の女性解放思想を象徴するスローガンとして現在も語り継がれています。私生活では、年下の画家・奥村博史との恋愛・同棲において婚姻手続きをあえて踏まないという共同生活を選択。社会制度への問いを実生活においても貫きました。1918年(大正7年)からの「母性保護論争」では、「女権主義」の立場をとる与謝野晶子らと対立し、「母性主義」を主張。同じ女性解放の文脈においても、立場の違いを明確にした論争として知られています。
1920年(大正9年)には市川房枝・奥むめおとともに「新婦人協会」を結成。日本初の婦人運動団体として、婦人参政権と母性保護を掲げた活動を展開しました。第二次世界大戦後は反戦・平和運動に軸足を移し、日本婦人団体連合会会長、国際民主婦人連盟副会長などを歴任しました。著書に『わたくしの歩いた道』(1955年)があります。
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