花袋忌 (記念日 5月13日)
1907年(明治40年)、文壇に衝撃を走らせた一篇の小説がありました。田山花袋の『蒲団』です。女弟子への屈折した感情を抱える中年作家が、去っていった彼女の夜着に顔をうずめてその匂いを嗅ぐ——この露骨な自己告白は発表直後から賛否両論を巻き起こし、翌月の文芸雑誌『早稲田文学』では島村抱月ら9名の論者が合同評を掲載するほどの騒ぎとなりました。抱月は「赤裸々の人間の大胆なる懺悔録」と評し、以後の日本近代文学における私小説の方向性を決定づけた作品として現在も読み継がれています。
花袋は1872年(明治4年)、栃木県邑楽郡館林町(現:群馬県館林市)に生まれました。本名は録弥。代々の秋元藩士を家系に持ちます。上京後は尾崎紅葉・江見水蔭の指導を受け、当初はロマン主義的な作風で筆を執りましたが、国木田独歩や柳田國男との交流を経て次第に自然主義へと傾いていきます。1902年の『重右衛門の最後』で文壇から認められ、1904年の評論『露骨なる描写』では自然主義の理論的旗手として名乗りを上げました。
1906年には文芸雑誌『文章世界』の主筆となり、自然主義文学の普及に精力的に取り組みます。そして翌1907年の『蒲団』発表により、島崎藤村と並ぶ自然主義文学の双璧として文壇の頂点に立ちました。その後も『生』(1908年)、『妻』(1909年)、『縁』(1910年)の長編三部作に加え、書き下ろし長編『田舎教師』(1909年)を次々と発表。生涯を通じて小説450篇、評論600篇、紀行文200篇という膨大な作品群を残しています。
大正期に入ると自然主義の退潮とともに文壇の主流からは距離を置きましたが、執筆の手は止まりませんでした。『時は過ぎゆく』(1916年)、日露戦争の体験に基づく『一兵卒の銃殺』(1917年)など、晩年まで精力的に作品を発表し続けます。1928年(昭和3年)末に脳溢血で入院し喉頭癌を患うと、病状は坂を転げるように悪化。1930年(昭和5年)5月13日、東京府代々幡町の自宅で静かに息を引き取りました。享年58歳。この日が「花袋忌」として後世に伝えられています。
故郷の館林市には田山花袋記念文学館が設けられており、生家跡や遺品・資料が保存されています。『蒲団』が突き付けた「人間の欲望を偽りなく書く」という問いは、百年以上を経た今も日本文学の根底に流れています。