泡鳴忌 (記念日 5月9日)
「耽溺」一作で自然主義文学の中心に躍り出た岩野泡鳴は、1920年(大正9年)5月9日、大腸穿孔により47歳で世を去りました。泡鳴忌はその忌日にあたります。波乱を生き抜いた半生がそのまま文学作品となった作家の命日として、文学史上に刻まれています。
泡鳴は1873年(明治6年)1月20日、現在の兵庫県洲本市海岸通に生まれました。本名は岩野美衛(よしえ)。明治学院、専修学校(現:専修大学)で法律学・経済学を修めましたが、卒業後に志を転じ文学の道へ向かいます。1891年(明治24年)には国木田独歩らとともに文芸誌「文庫」を創刊し、エマソン論と新体詩を発表しました。
宗教家の押川方義を慕って仙台へ赴き、1894年(明治27年)まで仙台神学校(現:東北学院)に在籍します。懐疑と煩悩を抱えながらも多様な読書体験を積んだこの時期が、後の思想形成に深く影響しました。東京に戻ってからは「歌舞伎新報」の編集者となり、英語教師などを転々としながら1901年(明治34年)に詩集「露じも」を自費出版。与謝野鉄幹が主宰する「明星」に参加し、創作活動を本格化させます。
1903年(明治36年)には相馬御風らと詩歌雑誌「白百合」を創刊。詩人として評価を得た後、1906年(明治39年)から小説に主力を注ぎ始めます。1909年(明治42年)に発表した「耽溺」は自然主義文学の代表作として位置づけられ、泡鳴の名を一躍高めました。「放浪」「断橋」「発展」「毒薬を飲む女」「憑き物」からなる「泡鳴五部作」は、みずからの波乱の人生を題材にした連作として知られています。文学論においても独自の立場を取りました。田山花袋が提唱した「平面描写」論に対し、作者の主観を移入した人物を描く「一元描写」論を主張。1906年(明治39年)の評論「神秘的半獣主義」とあわせ、自然主義の内部で鋭い個性を放ちました。詩から小説、評論へと活動域を広げた多面的な書き手でしたが、47歳という年齢での急逝により、その筆は途絶えることになります。墓所は東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園にあります。
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