修司忌 (記念日 5月4日)

修司忌

詩・短歌・演劇・映画・競馬評論と、ジャンルの壁を次々と突き破った寺山修司は、47歳という早さでこの世を去った。1983年(昭和58年)5月4日、敗血症による死は、日本の前衛芸術界に大きな空白をもたらした。その忌日は「修司忌」と呼ばれ、故郷・青森で今も静かに、そして熱く追悼される。

寺山修司は1935年(昭和10年)12月10日、青森県弘前市に生まれた。父・八郎は弁論家肌の警察官で、転勤が多く、修司は幼少期を青森県内各地で過ごした。本籍地は現在の三沢市とされており、この縁から後年、三沢市に記念館が設けられることになる。高校時代には俳句を中心に文学活動を始め、俳人・山口誓子や橋本多佳子らの知遇を得た。やがて短歌へと転じ、1954年(昭和29年)には『チェホフ祭』50首で「短歌研究」新人賞を受賞。10代にして詩壇・歌壇の注目を集めた。

早稲田大学教育学部国文学科に進学するも中退。在学中にネフローゼを発病し、数年の入院生活を余儀なくされた。この療養期間が創作の密度をむしろ高め、1957年(昭和32年)に第一作品集『われに五月を』、翌年に第一歌集『空には本』を刊行する。1959年(昭和34年)には谷川俊太郎の勧めでラジオドラマの執筆を開始。1960年(昭和35年)には篠田正浩監督作品のシナリオを担当し、戯曲『血は立ったまま眠っている』が劇団四季で上演された。演劇の世界への進出は、彼の活動領域をさらに広げていった。

1967年(昭和42年)、横尾忠則らとともに劇団「天井桟敷」を結成したことは、寺山の活動の中でも特に大きな転換点となった。「見世物の復権」を掲げ、徹底した前衛性と街そのものを劇場に見立てる手法で国内外に衝撃を与えた。代表作『毛皮のマリー』(1967年)、『奴婢訓』(1978年)はその精華であり、1974年には自ら監督した映画『田園に死す』も公開している。ボクシングや競馬の評論にも独自の視点を持ち込み、その言葉は文化批評としても読まれ続けた。

没後14年を経た1997年(平成9年)、三沢市寺山修司記念館が開館した。毎年5月4日の修司忌を中心に「春のフェスティバル」が開催され、献花のほか短歌・詩の朗読など、寺山が愛した言葉の形式で追悼が行われている。生前に「書を捨てよ、町へ出よう」と訴えた人物の記念日が、静かな館内での朗読によって刻まれるのは、いかにも寺山的な逆説といえる。