登美子忌 (記念日 4月15日)
白百合の号をもつ歌人・山川登美子が亡くなったのは、1909年(明治42年)4月15日のことです。29歳でした。彼女の死因は結核。結婚した夫・山川駐七郎から感染したとされており、生家のある福井県小浜市で息を引き取りました。その短い生涯は、近代短歌の黎明期とほぼ重なっています。
1879年(明治12年)7月19日、小浜藩の上級藩士の旧家に生まれた登美子は、大阪のミッションスクール・梅花女学校を卒業後、1900年(明治33年)に与謝野鉄幹が主宰する東京新詩社に参加しました。当時の新詩社は、近代短歌の革新運動の中心地であり、雑誌『明星』を舞台に新しい歌の表現を模索していました。登美子はそこで与謝野晶子、茅野雅子とともに活躍し、三才媛とうたわれるほどの存在感を示しました。
しかし彼女は、師である鉄幹への思慕を断ち切る形で、親の勧めによる縁組を受け入れます。一族の山川駐七郎と結婚したものの、2年で死別。その後、日本女子大学英文科に入学して学業を続けながら、『明星』へも復帰しました。1905年(明治38年)には、晶子・雅子との共著歌集『恋衣』を刊行しています。
登美子の歌風は、抑制のきいた静かな表現のなかに女の愛の真実感を漂わせるものでした。鉄幹への思いを詠んだとされる歌は、晶子の情熱的な歌と対比されることも多く、『恋衣』という一冊のなかで三人それぞれの個性が際立っています。生前に個人歌集を残すことはありませんでしたが、2011年(平成23年)に今野寿美の編により『山川登美子歌集』(岩波文庫)がまとめられ、後世に広く読まれる機会が生まれました。4月15日は、その命日にちなんで「登美子忌」と呼ばれています。短歌史における三才媛の一人として名を刻みながらも、29歳という若さで世を去った登美子の歌は、明治の女性が言葉に込めた感情の記録として、今日まで受け継がれています。