鷹女忌 (記念日 4月7日)

鷹女忌

「白露や死んでゆく日も帯締めて」——三橋鷹女(みつはし たかじょ)がのこしたこの一句は、死を目前にしながらも帯を締め、女の矜持を失わない姿を詠んでいます。写生の方法に寄らず、口語と女性の情念を前衛的な句法で結びつけたその作風は、昭和の俳壇において異彩を放ち続けました。鷹女は1899年(明治32年)12月24日、現在の千葉県成田市に生まれました。本名はたか子、別号を東文慧といいます。成田高等女学校(現・成田高等学校)を卒業後、はじめ与謝野晶子、のち若山牧水に師事して短歌を学び、俳句へと転じました。

1929年(昭和4年)、夫とともに原石鼎の「鹿火屋」に入会して俳句を本格的に学び、のちに「玻」創刊、「蜻蛉」「俳句評論」へと参加。前衛俳句の中心部と交わり続けた経歴が、その句風の根幹を形成しています。

句風は時期によって大きく変化します。戦前は自在な口語表現を駆使した奔放な作風が際立ち、「ひるがほに電流かよひやはせぬか」のような官能的な緊張感を持つ句を生み出しました。戦中は息子の出征を案じる母情の句が増え、戦後は老いと孤独、死の予感を凝縮した句へと深まっていきます。50代以降の作品は女性俳句としては例のない孤高の境地に達しており、句集『羊歯地獄』以降は死の意識を伴った凄絶な世界へとさらに踏み込みました。句集には『向日葵』『魚の鱗』『白骨』『羊歯地獄』『ぶな』があり、没後には『三橋鷹女全句集』『三橋鷹女全集』も刊行されています。昭和期の代表的な女性俳人として中村汀女・星野立子・橋本多佳子とともに「四T」と呼ばれますが、その中でも表現の激しさと前衛性においては突出した存在でした。1972年(昭和47年)、72歳で死去。この忌日が「鷹女忌」として知られています。