放哉忌 (記念日 4月7日)

放哉忌

「咳をしても一人」——たった7文字のこの句は、孤独の極致を何の修飾もなく差し出します。俳人・尾崎放哉(おざき ほうさい)が生涯の終わりに辿り着いた句境は、五・七・五の定型も季語も持たない自由律俳句でした。1926年(大正15年)4月7日、放哉は香川・小豆島の南郷庵で41歳の生涯を閉じました。その忌日が「放哉忌」です。

放哉は1885年(明治18年)、現在の鳥取県鳥取市に生まれました。本名は秀雄。東京帝国大学法学部を卒業し、保険会社に勤めて要職にも就いた人物です。社会的な地位を持ちながら、1915年(大正4年)には荻原井泉水が主宰する俳誌「層雲」に参加し、自由律俳句の世界へ踏み込んでいきます。しかしその後、酒癖の悪さが一因ともいわれる経緯で職を失い、1923年(大正12年)にはついに地位・財産・家族のすべてを捨て、京都の一燈園へと入所します。

放哉の放浪はそこから始まります。神戸・須磨寺の大師堂、若狭小浜の常高寺——各地の寺で寺男を務めながら句を詠み続け、1925年(大正14年)、最後の地となる小豆島の西光寺奥の院南郷庵に入ります。病身を抱えながらも句作に没頭した晩年の生活は、決して豊かではありませんでした。それでも「こんなよい月をひとりで見て寝る」「足のうら洗えば白くなる」「墓のうらに廻る」といった、ひとりの人間の感覚をそのまま切り取ったような句が次々と生まれました。

これらの句に共通するのは、孤独を嘆くのでも美化するのでもなく、ただそこにある事実として提示する姿勢です。五・七・五という型を捨て、季語という約束事も外したとき、残るのは言葉と感覚の直接的な衝突です。種田山頭火と並んで自由律俳句の双璧と称される放哉ですが、山頭火の句が旅する魂の哀愁を帯びているとすれば、放哉の句はより静的で、より削ぎ落とされています。代表句集『大空』は死去した1926年に刊行されました。

小豆島には尾崎放哉記念館があり、終焉の地である西光寺奥の院には放哉の墓が今も残っています。生前に築いたものをすべて手放した人物の記念館が百年後も訪れる人を迎えているのは、句が持つ力の証左といえます。