鑑三忌 (記念日 3月28日)
1891年(明治24年)1月9日、第一高等中学校の教育勅語奉読式で、ひとつの「礼の深さ」が日本中の論議を巻き起こしました。講師であった内村鑑三は、天皇の署名・御名御璽に対する最敬礼を十分に行わなかったとして「不敬」と糾弾されます。当日は重度のインフルエンザで意識が朦朧とした状態にあったとも伝えられますが、世論は沸騰し、辞表は本人の知らないうちに提出されました。内村鑑三の名が日本全国に刻まれた瞬間でした。
内村は1861年(万延2年)2月13日、高崎藩士の子として江戸・小石川の藩邸に生まれます。札幌農学校(現:北海道大学)に進学し、初代教頭ウィリアム・スミス・クラークの薫陶を受けた先輩学生たちの影響でキリスト教の洗礼を受けました。卒業後は渡米し、マサチューセッツ州のアマースト大学などで学びを深めます。帰国後は教育界に入りますが、不敬事件を境に著述の道へと転じました。
著述家となった内村が力を注いだのが、教会制度に依らない聖書信仰の普及です。1900年(明治33年)、日本初の聖書雑誌『聖書之研究』を創刊・主宰し、聖書研究会を通じて独自の無教会主義を唱えました。聖書こそが信仰の根拠であり、洗礼や聖職者は必要としないという立場は、当時の西洋型教会制度と真っ向から対立するものでした。塚本虎二や矢内原忠雄など各界で活躍する優れた門弟を多く育て、その思想は国内外に広がっていきます。
社会問題にも積極的に関わりました。足尾銅山の鉱毒被害が農村を苦しめていた時代、内村は反対運動を支持し、被害の実態を広く伝えます。また1903年(明治36年)、日露関係が緊迫するなか、幸徳秋水・堺利彦らとともに『万朝報』紙上で非戦論を主張しました。信仰と社会正義を結びつけるその姿勢は、思想家としての内村の一貫した軸でした。主要著書には『基督信徒の慰め』(1893年)、『求安録』(1893年)、『余は如何にして基督信徒となりし乎』(1895年)があり、英文で書かれた後者は海外でも広く読まれました。1930年(昭和5年)3月28日、69歳で死去。その命日は「鑑三忌」として記憶されています。明治から大正へと続く激動の時代に、信仰と言論の両輪で日本社会に問いかけ続けた生涯でした。