スリーマイル島の日 (記念日 3月28日)
1979年3月28日午前4時、ペンシルベニア州のスリーマイル島原子力発電所2号炉のコントロールルームに警報が鳴り響きました。2次冷却水の循環が突然停止したことを告げるその警報が、アメリカ史上最悪の原子力事故の幕開けとなりました。事故の発端は、冷却系の配管フィルターの洗浄作業中に安全装置へ水が混入し、給水ポンプが停止したことでした。冷却水の供給が途絶えると原子炉は自動停止しましたが、停止後も核燃料からは崩壊熱が発生し続けます。さらに、圧力調整のために作動した安全弁が閉じなかったことに加え、運転員が自動緊急冷却システムを誤って手動停止するという判断が重なり、炉心部分への冷却水が急速に失われていきました。
露出した炉心は過熱し、炉心溶融(メルトダウン)が発生。燃料の約45パーセント、62トンが溶融し、そのうち20トンが原子炉圧力容器の底部に堆積しました。まもなく給水システムが復旧して事態は収束に向かいましたが、その後の調査で、急激な冷却によって炉心の損傷が当初の想定を大きく上回っていたことが判明しています。
非常事態が宣言され、発電所周辺の住民に避難勧告が出されました。妊婦と幼児を中心に約14万人が自主避難したとされています。周辺住民が実際に浴びた放射線量は比較的わずかで、直接的な健康被害は確認されなかったとされていますが、40年以上が経過した後の調査では、周辺地域での甲状腺がん発症率の高さを指摘する報告も出ています。
この事故の国際原子力事象評価尺度(INES)における評価はレベル5で、「施設外へのリスクを伴う事故」に分類されます。2号炉はその後の営業運転を断念し、1979年から1993年にかけて約10億ドルをかけた除染作業が実施されました。事故後のアメリカでは反核運動が急速に広まり、計画中だった多数の原発建設が中止・凍結されました。それまで「安全」とされてきた原子力発電の脆弱性を世界に示したこの事故は、原発の安全基準や運転員訓練の抜本的な見直しを促し、世界の原子力政策に大きな転換点をもたらしました。3月28日はその教訓を忘れないための日として記憶されています。