赤彦忌 (記念日 3月27日)
5歳で百人一首を暗唱した。そんな逸話が残る島木赤彦(本名・久保田俊彦)は、長野県諏訪の地に1876年(明治9年)に生まれました。父は旧諏訪藩士で漢学・国学に通じた人物。歌道に通じた祖母の手ほどきで百人一首に親しんだ赤彦は、7歳のときに自ら望んで父から家学を受けるようになります。神官の家に生まれた子が、和歌への道をみずから切り開こうとした姿がそこにあります。
長野県尋常師範学校(現・信州大学教育学部)を卒業した赤彦は、小学校の教員・校長として働きながら、歌人としての活動を続けました。職業人としての責務を果たしつつ、歌に向き合い続けるという二足の草鞋の生き方は、当時の文学者としては珍しくない面もありますが、赤彦の場合は両者に対して徹底していました。1903年(明治36年)には雑誌『氷むろ』(のちの『比牟呂』)を創刊し、写実主義短歌の制作と発表の場を自ら整えます。
師と仰いだのは伊藤左千夫でした。赤彦の『比牟呂』は『アララギ』と合併し、以後アララギ派の有力歌人として頭角を現していきます。1913年(大正2年)には中村憲吉と共著で第一歌集『馬鈴薯の花』を刊行。翌1914年(大正3年)に上京し、斎藤茂吉らとともに『アララギ』の編集に携わります。それまで不定期だった発行を定期化し、会員数を着実に増やしていったのは赤彦の尽力によるところが大きく、アララギを「歌壇随一の雑誌」へと育て上げた中心人物としての功績は際立っています。赤彦の歌風は「寂蓼相(じゃくりょうそう)」と呼ばれる独特の境地にあります。自然と人間が一体となった、淡々とした静けさの中に深みをたたえる表現で、その根底にあるのは「鍛錬道」という厳しい歌論です。一首の完成に向けて粘り強く磨き続ける姿勢は生涯変わりませんでした。故郷・諏訪の風土、とりわけ諏訪湖の広大な景観はその着想に深く関わっており、「夕焼空 焦げきわまれる 下にして 氷らんとする 湖の静けさ」——動と静の対比を色彩豊かに詠んだこの一首に、赤彦の歌の本質がよく表れています。
1926年(大正15年)3月27日、赤彦は胃がんのため諏訪郡下諏訪町の自宅で没しました。享年51。死後、アララギは衰退へと向かっていきます。それはひとりの人間が誌を支えていたことの証明でもありました。教壇に立ちながら歌を詠み、誌の経営を担いながら後進を育てた赤彦忌は、3月27日に訪れます。