竹冷忌 (記念日 3月20日)
政治家の顔と俳人の顔、ふたつを持ちながら明治・大正を駆け抜けた人物が角田竹冷(つのだ ちくれい)です。1919年(大正8年)3月20日、62歳でその生涯を閉じたこの日は「竹冷忌」と呼ばれ、別号「聴雨窓(ちょううそう)」にちなんで「聴雨窓忌」とも称されます。
竹冷は1857年6月4日(安政4年5月2日)、駿河国加島(現:静岡県富士市)に農業・角田彦右衛門の次男として生まれました。本名は真平(しんぺい)。17歳で上京して法律学を修め、1880年(明治13年)には代言人(現在の弁護士に相当)試験に合格しています。そこからの政治家としての歩みは華やかなものでした。東京府会議員、神田区会議員、牛込区会議員、東京市会議員と地方行政で経験を積み、東京市臨時市区改正局長兼水道局長という要職にも就きます。さらに1892年(明治25年)には衆議院議員に初当選し、以後7回にわたって当選を重ねました。
政治の世界での活躍と並行して、竹冷が俳句の道へ深く踏み込んでいったのが明治20年代のことです。1895年(明治28年)、38歳のときに尾崎紅葉・巌谷小波・森無黄・大野洒竹らとともに「秋声会」の創設に関わります。秋声会は正岡子規と並ぶ新派俳句の一拠点として注目を集めた結社で、文人や政治家が交差する独特の場でした。翌1896年(明治29年)には自ら新派俳句誌「山吹」を創刊し、主宰として俳壇にその存在感を示しました。
衆議院の議場で論戦を繰り広げる傍ら、「山吹」の誌面で季語と格闘する。その二重生活は当時の人々の目にどう映ったでしょうか。明治という時代は、漢詩や和歌の素養を政治家の品格と見なす風土がまだ色濃く残っており、俳句への傾倒はある種の必然だったとも言えます。とはいえ、衆議院議員を7期務めながら新派俳句の結社創設と俳句誌主宰という実績を同時に積み上げた人物は、竹冷をおいてほとんど見当たりません。
別号「聴雨窓」には、雨音に耳を澄ます静謐な書斎のイメージが宿っています。政治家としての喧噪の日々を送りながら、そのような雅号を持ち続けたところに、竹冷という人の内側が垣間見えます。法律家から政治家へ、そして俳人へという重層的な経歴は、明治という変革期だからこそ生まれた一つの人間像でした。竹冷忌の今日、その複合的な生涯に思いを馳せてみてください。