安吾忌 (記念日 2月17日)

安吾忌

「堕落せよ」と説いた作家が、48歳で世を去ったのは1955年(昭和30年)2月17日のことです。坂口安吾の忌日を「安吾忌」と呼び、毎年この日には東京都千代田区一ツ橋の如水会館や、生まれ故郷である新潟市の墓前で追悼行事が行われます。安吾は1906年(明治39年)10月20日、現在の新潟市中央区に生まれました。本名は坂口炳五(へいご)。「炳五」という名は、丙午年生まれの五男であることに由来します。「安吾」という筆名の由来については、中学生時代のエピソードが伝わっています。勉強をしない炳五に漢文の教師が「お前なんか炳五という名は勿体ない。自分に暗い奴だからアンゴと名のれ」と黒板に「暗吾」と書いたといい、それが後に「安吾」へと転じたとされます。

東洋大学印度哲学倫理学科を卒業後、1931年(昭和6年)に『風博士』『黒谷村』が牧野信一・宇野浩二らに認められ文壇へ登場します。その後、失恋による沈黙期を経て、1942年(昭和17年)の随筆『日本文化私観』『青春論』で文壇に復帰しました。

戦後に発表した評論『堕落論』(1946年)と小説『白痴』(1946年)が大反響を呼び、一気に流行作家となります。『堕落論』は「戦争に負けたから堕ちるのではなく、人間だから堕ちるのだ」という逆説的な論旨で、敗戦直後の日本社会に生きる人々へ新たな指針を示しました。旧来の道徳観を否定し、人間の本性としての「堕落」を肯定するその姿勢は、太宰治・織田作之助・石川淳らとともに「無頼派」「新戯作派」と称された文学運動の中核をなしています。

創作の幅は広く、推理小説『不連続殺人事件』(1947年)、短編小説『桜の森の満開の下』(1947年)、歴史小説『道鏡』(1947年)、文明批評的随筆『安吾巷談』(1950年)など、ジャンルをまたいだ旺盛な執筆活動を続けました。なかでも『桜の森の満開の下』は幻想文学の名品として後世に読み継がれています。しかし晩年は睡眠薬への依存もあり、脳出血により1955年2月17日、48歳で急逝しました。