西行忌 (記念日 2月15日)
「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」——この歌のとおり、西行法師は旧暦2月16日に73歳で息を引き取りました。実際の命日より一日早い2月15日が忌日とされるのは、「望月(満月)のころ」という自らの予言歌に合わせてのこと。釈迦の入滅と同じ日に、花の下で死ぬことを願った歌人の最期は、まるで生涯をかけて詠んだ一首の結末のようです。
西行の俗名は佐藤義清(さとう のりきよ)。1118年(元永元年)に武家に生まれ、鳥羽院に北面武士として仕えた若き日は、弓馬の達者として知られていました。北面武士とは院の身辺を警衛する精鋭武士であり、その仲間には後に平氏政権の頂点に立つ平清盛もいました。武士として将来を約束されていた義清が23歳で突然出家したことは、当時の人々に大きな衝撃を与えたとされています。
出家の理由は本人の記録に残らず、今も謎のままです。「西行物語」には親友の急死が契機として描かれていますが、確証はありません。妻子を捨てての出家であり、幼い娘を縁側から足で蹴り落として去ったという逸話も伝わっています。
法号を円位(えんい)、後に西行と改めた彼は、高野山を拠点としながら東北・四国・九州へと諸国を遍歴。生涯に詠んだ和歌はおよそ2300首に及び、勅撰集「新古今和歌集」への入集数は94首で収録歌人の中で最多です。自撰歌集「山家集」には山河の景色、桜への執着、仏道への思いが率直な言葉で刻まれており、後世の松尾芭蕉も「西行の和歌を手本にした」と記すほど、その影響は江戸時代まで及んでいます。平清盛・崇徳院・藤原俊成ら時代の中枢にいた人物たちとも深く交わりながら、権力とは一線を画した生き方が、西行という存在を後世に際立たせています。