周五郎忌 (記念日 2月14日)

周五郎忌

直木賞に推されながら受賞を断った作家がいます。山本周五郎は1942年から45年にかけて連載した『日本婦道記』で直木賞候補となりましたが、「自分はまだその水準に達していない」として辞退しました。その後も複数の賞を固辞し続けたため、文芸評論家たちからへそ曲がりを意味する「曲軒(きょくけん)」と呼ばれました。賞に縛られることなく書き続けた姿勢は、大衆文学の世界では異端とも言える生き方でした。

本名は清水三十六(しみず さとむ)。1903年(明治36年)6月22日に現在の山梨県大月市で生まれ、「三十六」という名は生まれ年にちなんでつけられました。小学校卒業後に上京し、東京の質屋「山本周五郎商店」に徒弟として住み込みます。その奉公先の屋号を筆名にしたのが山本周五郎の由来です。店主の名でも出身地でもなく、働いた場所の名前を一生の看板にしたというのは、いかにも彼らしい選択でした。その質屋などで働きながら20代前半に作家活動を始め、1926年に発表した小説『須磨寺附近』と戯曲『法林寺異記』で文壇に認められました。以後、少年読物から大衆小説まで幅広く発表し続け、江戸の庶民を描いた人情ものを中心に独自の作風を確立していきました。

周五郎の作品に通底するのは、権力や名声とは無縁の場所に生きる人々への深い眼差しです。貧しい町人や名もなき職人、社会の底辺に置かれた女性たちが、悲しみや理不尽を抱えながらも誠実に生きようとする姿を丁寧に描きました。『樅ノ木は残った』(1954〜58年)、『赤ひげ診療譚』(1958年)、『青べか物語』(1960年)、『季節のない街』(1962年)、『さぶ』(1963年)など、現在も読み継がれる作品を次々と生み出し、大衆文学の質を引き上げた功績は揺るぎないものとなっています。そのまなざしは、賞を拒否し続けた作家自身の生き方ともどこかで重なっています。

1967年(昭和42年)2月14日、肝炎と心筋衰弱のため63歳で死去しました。2017年(平成29年)には没後50年の節目を迎え、生誕の地である山梨県や居住した神奈川県の文学館で「没後50年 山本周五郎展」が開催されました。テレビでも周五郎原作の旧作ドラマが放映され、改めてその作品世界が注目されました。「曲軒」と呼ばれた作家の言葉と物語は、半世紀を経てもなお色あせていません。