雪池忌 (記念日 2月3日)
1901年(明治34年)2月3日、福澤諭吉は66歳でこの世を去りました。三田の自邸から東京・元麻布の善福寺まで、1万5000人もの会葬者が葬列に加わったといいます。幕末から明治にかけて日本社会を大きく動かした思想家の死は、それほど多くの人々にとって大きな出来事でした。「雪池忌(ゆきちき)」は、この忌日に由来します。
福澤諭吉は1835年1月10日(天保5年12月12日)、豊前国中津藩(現:大分県中津市)に生まれました。「諭吉」という名前には珍しい由来があります。儒学者でもあった父が清の法令書『上諭条例』を手に入れた夜に生まれたことから、この名がつけられました。書物が縁を結んだ名前は、生涯を著述と教育に捧げた人物にふさわしいものといえます。
大坂で緒方洪庵のもと蘭学を修め、江戸に蘭学塾を開設。さらに独学で英語を習得し、1860年(万延元年)には幕府の遣米使節に同行して咸臨丸で渡米しました。その後も2度にわたり欧米を視察し、帰国後に刊行した『西洋事情』は欧米文明を日本社会に広く紹介する役割を果たしました。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という書き出しで知られる『学問のすゝめ』は、人間平等と一身独立・一国独立を説いてベストセラーとなります。明六社の創立にも参加し、『時事新報』を創刊して政治・社会・婦人問題まで幅広い論説を発表し、世論の形成に大きく関わりました。
1868年(慶応4年)、芝・新銭座の塾を「慶應義塾」と命名し、教育活動に専念します。現在も毎年、慶應義塾の関係者が善福寺で法要を営んでいます。晩年には『脱亜論』に見られるように富国強兵政策を支持するなど、その思想は時代とともに変化しました。著書は『文明論之概略』『帝室論』『福翁自伝』『瘠我慢の説』など多岐にわたります。
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