大岡越前の日 (記念日 2月3日)
「大岡裁き」で名奉行として知られる大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)ですが、実は南町奉行在任中に担当した裁判はわずか3件しかありませんでした。しかもそのうち忠相自身が執り行ったのはたった1件のみです。テレビドラマで描かれる痛快な裁きのイメージとは大きくかけ離れたこの事実は、忠相という人物の本当の姿を知るうえで重要な手がかりになります。
1717年(享保2年)のこの日(旧暦)、忠相は8代将軍・徳川吉宗に抜擢されて江戸南町奉行に就任しました。以降、19年間にわたってその職にあり続けます。町奉行といえば民事・刑事裁判を担う司法官というイメージがありますが、忠相の真骨頂はむしろ行政官としての手腕にありました。江戸の市中行政を幅広く取り仕切り、幕政の中枢機関である「評定所」の構成員「評定所一座」にも加わりました。
さらに「関東地方御用掛(かんとうじかたごようがかり)」として関東周辺の農政を担当し、のちには「寺社奉行」にも任じられるなど、忠相は異例の出世を遂げました。通常、旗本が就く町奉行の職にありながら武士として極めて異例の「従四位下」の位に昇り、大名並みの待遇を得ました。これは徳川吉宗が主導した「享保の改革」を現場の最前線で支え続けた中心人物として、目安箱の設置や「町火消し」の制度整備といった江戸市民の生活に直結する政策にも深く関わり、その実務能力の高さを将軍から認められていたことを示しています。後世に語り継がれる「大岡裁き」の逸話の多くは講談や歌舞伎などによって生み出された創作であり、「三方一両損」や「石を裁く」といった有名な話も忠相の実話ではないとされています。名奉行のイメージは民衆が理想の政治家像を忠相に投影して作り上げたものといえますが、享保の改革を支え続けた19年間という実績は、江戸時代屈指の行政官として忠相を捉え直すにあたって十分に傑出したものです。