実朝忌 (記念日 1月27日)

実朝忌

1219年(建保7年)1月27日、鶴岡八幡宮の石段に鮮血が流れた。右大臣拝賀の式典を終えた源実朝が、雪の陰から飛び出した甥の公暁に斬られ、27歳で命を落とした。武士として初めて右大臣の地位に就いた翌日のことです。この日が実朝忌として語り継がれ、今も鎌倉の寿福寺では歌人たちが集い、追悼の歌を詠む。実朝は1192年(建久3年)に鎌倉幕府を開いた源頼朝の次男として生まれた。兄の頼家が北条氏によって追放されると、わずか12歳で第3代征夷大将軍に就任した。幼少期から北条氏など周囲の有力者が政治の実権を握っていたが、成長とともに実朝自身も政務への関与を深めていった。右大臣への昇進は武士として前例のない出世であり、朝廷との関係を重視する実朝の姿勢を示すものでした。

歌人としての実朝は、政治家としての側面とは異なる輝きを持つ。家集『金槐和歌集』には663首(異本では719首)が収録されており、万葉風の力強い詠みぶりが特徴とされています。藤原定家から直接『万葉集』を贈られた1213年(建暦3年)末までには同集が成立したと考えられており、定家自身も実朝の才能を高く評価して『新勅撰和歌集』に25首を入集させています。勅撰和歌集全体では92首が採られ、小倉百人一首にも「鎌倉右大臣」の名で選ばれた。

百人一首に収録された一首「世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ 海人の小舟の 綱手かなしも」は、変わらぬ日常を願う穏やかな心情を詠んでいます。激動の政治の只中に置かれながら、こうした静謐な歌を残した実朝の二面性は、後世の文人たちを長く魅了してきました。暗殺によって実朝の死と同時に源氏将軍の血筋は断絶し、鎌倉幕府はその後、北条氏による執権政治へと完全に移行することになります。