法然忌 (記念日 1月25日)

法然忌

「南無阿弥陀仏」と唱えれば、身分も学識も関係なく、誰もが等しく極楽浄土に往生できる——。この教えを打ち立てた法然が1212年(建暦2年)1月25日に78歳で没した日が、法然忌です。浄土宗ではこの忌日法要を特に「御忌(ぎょき)」と呼び、知恩院(京都東山)では毎年4月19日から25日にかけて全国から参詣者を集める大法要が執り行われます。

法然は1133年(長承2年)、美作国(現在の岡山県)に生まれました。幼名は勢至丸。9歳のとき、夜討ちで深手を負った父から「敵を恨まず、出家して父の菩提を弔え」と遺言され、仏門に入ります。15歳で比叡山延暦寺に上り、源光・皇円、そして黒谷別所の叡空に師事。叡空から「法然」の名と、諱(いみな)「源空」を授かりました。

転機は黒谷での修行中に訪れます。中国・唐代の高僧・善導が著した『観無量寿経疏』の一節——「一心にもっぱら阿弥陀仏の名を称え、常に称え続けることが浄土往生の正業」——に触れた法然は、念仏こそが凡夫を救う唯一の道であると確信しました。1175年(承安5年)、43歳のとき浄土宗を開宗。京都東山の吉水に庵を結び、主に武士や農民といった民衆への布教に力を注ぎました。

しかし、その教えは既存の仏教勢力から激しい反発を受けます。1207年(承元元年)、興福寺など南都の僧侶たちが朝廷に働きかけた結果、弟子2人が死罪に処され、法然自身は讃岐国(現在の香川県)への流罪を命じられました。「建永の法難」と呼ばれるこの事件は、法然が74歳のときのことです。僧籍まで剥奪され、俗名「藤井元彦」として配流された法然は、翌年に赦免されて帰洛を許されますが、その際「今は僧にあらず、俗にあらず」と語ったと伝わります。帰京後まもなく体調を崩し、1212年1月25日、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」の言葉とともに往生しました。

法然の最大の功績は、それまで貴族や一部の修行者だけのものであった仏教の救いを、読み書きのできない庶民にまで開いたことにあります。「南無阿弥陀仏」という短い念仏一つに集約された教えは、乱世に苦しむ人々の心に深く刻まれ、弟子の親鸞が浄土真宗を開くなど、後の日本仏教に決定的な影響を与えました。著作『選択本願念仏集』は、その思想をまとめた主著として今も読み継がれています。