左遷の日 (記念日 1月25日)
「左遷」という言葉の語源を、あなたはご存知でしょうか。古代中国では右を上位、左を下位とする慣習があり、「左に遷す(うつす)」ことが降格を意味しました。その言葉が日本に定着するきっかけとなったのが、901年1月25日に起きた菅原道真の大宰府左遷です。この出来事は「昌泰の変」と呼ばれ、平安時代の政治史を大きく揺るがした権力闘争の結末でした。
道真は学問の才に秀でた人物で、宇多天皇の厚い信任を受けて異例の速さで出世を重ね、897年には右大臣にまで登り詰めました。しかし、その出世を快く思わなかったのが左大臣・藤原時平です。時平は醍醐天皇に対し「道真は国家の政治を私物化し、娘婿の斉世(ときよ)親王を帝位に就けようと企んでいる」と繰り返し讒言しました。証拠のない謀反の疑いでしたが、天皇はこれを信じ込み、道真を太宰権帥(大宰府長官の代理職)に降格して筑紫国(現・福岡県)へ追放する命を下しました。当時59歳、左遷は事実上の流罪でした。
都を去る朝、道真は長年親しんだ自邸の梅を見上げ、「東風吹かばにほひをこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」と詠みました。主人のいなくなった庭でも、春になれば香りを届けてくれと梅に語りかけたこの歌は、今も教科書に掲載され続けています。その梅は道真を慕って大宰府の庭まで飛んでいき根づいたという「飛梅(とびうめ)」の伝説として、太宰府天満宮に現在も受け継がれています。
大宰府に流された道真は配流先の官舎に幽閉同然の生活を強いられ、2年後の903年2月25日に59歳で没しました。その後、京では疫病の流行・洪水・雷など凶事が相次ぎ、道真の祟りを恐れた朝廷は彼を神として祀るようになります。これが全国約12,000社に及ぶ天満宮・天神社の起源です。左遷から1100年以上が経った今も、毎月25日は各地の天満宮で縁日が開かれ、受験生をはじめ多くの人々が参拝に訪れています。無実の罪で追われた一人の学者が、日本最大規模の神として崇められるに至った歴史は、権力と無実の問題を考えるうえで今なお示唆を与え続けています。